より直接に

昨日も夜寝る前に、アレクサンドル・シュメーマン『世のいのちのために 正教会サクラメントと信仰』を少しだけ読んだ。シュメーマンは殊更に何か新しいことは言っていない。正教が守ってきたことを、そのまま語るだけ。それが新しいと感じるのは、やはり正教の持つ潜勢力そのものの新鮮さによるのだろう。シュメーマンはそれを実にうまく取り上げる。
彼は象徴という言葉を遠ざける。あるいは神秘主義とか、霊性とか、宗教とか、ときには「聖」とか!。もちろん彼もこれらの言葉が無意味だとは思っていない、そのことは端々から伺える。ただ、彼はこれらの言葉遣いによって、信仰が何かこの世から遠い、無関係な場への逃避に陥ることを危惧するのだ。
彼は「象徴」として片付ければとりあえず居心地良く納得できそうなことを、ことごとく愚直なまでに現実の人間や世界のありように対応させ、そのイメージを具体的にする。あくまで戦略としてだが、彼は「神学」という語さえ遠ざける。そして奉神礼は心の中ではなく現実の喜びであると。
今まで少しだけだが正教の勉強をさせてもらったので、シュメーマンの神学はとても納得がいく。正教は神の創造した人間や世界を肯定し、強迫的に原罪を振りかざさない(もちろん罪の現実をも無視せずに)。神に祝福された世界や人間において創り主なる神と出会うのだから、その喜びを現実世界で発見するのは必然である。
「この世的なもの/罪に満ちたもの」としてあらゆる教会「外」の価値観を否定し、あるいは暗に斥け、罪の皮をたまねぎのそれのように剥き続け、内なる内なる信仰においてようやくちょっぴり平安を得、再び神と無関係な「罪深い」世で教会など考える暇もなくなる・・・そういう事態に対して正教的に疑義を呈するのだ。
今日も礼拝において、人々と悲しみや苦しみを、キリストの受難において分かち合い、人々と喜びを、キリストの復活へのありありとした気配において分かち合えますように。インマヌエル・アーメン。

礼拝において、時が変容する

おとといより、アレクサンドル・シュメーマン著、松島雄一訳『世のいのちのために 正教会サクラメントと信仰』(新教出版社)を読み始める。「第2章 聖体礼儀」まで読む。礼拝が地上にいるままに天への上昇であること、機密(サクラメント)はイエスが感謝のうちに自身を天へと捧げたことの記憶と一致すること。
「宗教」と呼ぶ限り、宗教とそれ以外という狭いものに神を押しこめること。「聖─俗」で考える限り、どこかこの世の片隅に特別な場をしつらえて満足すること。ユーカリスト(感謝/聖餐)はそうではなく、まさにパンと杯を祭壇へ捧げることでイエスの献身と一致すること。それは喜びであること、等々。
「記憶」という言葉が鍵になっているようだ。“光栄なる再度の降臨を記憶して”は、未来のことだが「記憶」である。そう考えると、聖変化後のとりなしの祈りすなわち「記憶の祈り」もまた、たんに(過去の)死者を想起するだけのものではないのだろう。未来にともによみがえりに与るであろう者としての死者たち。

同僚の先生たちに、お別れ会をしていただいた。今日は連れ合いも同席できて、よかった。先生方はいつもわたしを立ててくれた。だから、身に余る贅沢な気持ちで仕事に打ち込めた。ただただ感謝しかない。この人たちと別れるのは名残惜しいが、次の地でまた新たな出会いが待っている。

埋まらないが埋まる

W.パネンベルク著、西谷幸介訳『現代キリスト教霊性』(教文館)を読んでいる。冒頭の、近現代の敬虔主義における強迫的な(個人的・心理的)罪意識と一般社会常識との乖離への指摘は、あらためて論理的に指摘されてみると、学ぶものが多い。律法で罪を責め立て、福音で赦す。その、しんどい繰り返し。
これらに対してパネンベルクは、初期のルターはむしろ、この罪意識による強迫から解放された喜びを、信仰義認において語ったのではなかったかと言う。そして罪意識による自己嫌悪を誘っては福音を提示するという、リアリティのない説教よりも、ルターが体験したような意味でのキリストとの一致、すなわち聖餐における、個人を超えた神と人(々)との交わりを、と。
しかしどうせなら、どうやって「あなたもわたしも罪人です」を超える説教を語ることができるか、を語って欲しかったなあ。これでは説教はもはや小さな意義しかないような感じがする。説教から聖餐へ、は単純/楽観的すぎるような。
。“彼らによれば、あたかも信仰の内容は、それが純粋に主観的・個人的確信の立場から述べられるならば、批判的問いにたいしても安全地帯に置かれうるかのようである。”(同書、113頁)
『現代キリスト教霊性』読了。第5章での、久松真一阿部正雄による仏教における宗教哲学からの、ある意味「挑戦」を受けて、パネンベルクがルターをもって斬り返す技が秀逸だった。これだから仏教をとおして自己のキリスト信仰を振り返るのはやめられない。
阿部は、ローマ7:22における内なる人と罪なる自己との同時性や、フィリピ2:7における自己否定に、仏教的視座から深く共感しつつも、仏教における輪廻と涅槃との二元性の否定(「空」)に対して、キリスト教は信仰者とキリストとの二元性が残ると指摘する。これに対してパネンベルクは、ルターにおけるキリストに与ることとは、キリストとの一致であり、信じる自己がキリストとともに自己を差し出すことであり、キリストをとおして人々と一致することであると語る。さらには三一論にも言及しつつ、キリストと信仰者、あるいは神とキリストと聖霊とは、単純な二項(対立)ではなく、それぞれに峻別されつつも主客の二元論を超えると語る。
パネンベルクの、現実総体や意味総体といった、歴史全体を見渡そうとする神学には壮大過ぎてついてゆけないが、仏教との出会い、それも恣意的でなく誠実な出会いを通して、キリスト教を深く深く掘り下げる姿勢には共感する。そこには他者に曝されることに耐え、他者との出会いに喜ぶ、力強い思惟があるからだ。
読み終えてみると、パネンベルクが敬虔主義的な罪糾弾を強く拒む理由も分かった。「あなたは罪人です、悔い改めなさい」式の繰り返しでは、キリストはつねに二元論的にわたしの「対象」であり続ける。それはキリストとわたしとの、永久に埋まらぬ距離の虚しさと紙一重だからなのだ。

ストラヴィンスキーウィキペディアを読んでいて、彼は自作を大量にレコーディングしていたと知る。しかしウィキペディアの解説によれば“指揮の精度やオーケストラの技術については専門の指揮者による録音に一歩譲るものの”とある。ということは、作者ストラヴィンスキーの「意図」を、作者「以上に」表現できる、専門の指揮者や演奏者が居た、あるいは居るわけだ。
となると、その、作者以上に作者の意図を演奏しきった演奏というのは、果たして作者の意図の現出なのか・・・・これだから、作品を「受け取る」ということは面白いんだなと。
以前に田中泯という人が躍っている『兵士の物語』というのをテレビで観て感激し、CDを買ってみたら、物語の朗読がジャン・コクトーだったのでさらに驚いた。大音量で再生して別の部屋で聴くと、まるでコクトーが家に遊びに来てくれたような妄想に浸ることができる。

暗闇をしずかにみつめる

アーウィン・ブルーメンフェルドって写真家、こないだ日曜美術館のアートシーンで知ったけど、いいなあ。残念ながらもう観に行けないけれど。
ラーゲルクヴィスト著、尾崎義訳『バラバ』(岩波文庫)読了。最後までキリストを信じられず、最後に今度こそキリストに従ってローマに火をつけたら、それもまたキリストを裏切りカエサルの思惑に加担することに相成ったという、出来事レベルでは皮肉でしかない男の物語。
とはいえ、磔刑にされたバラバが、最後やけに平安に見える。キリストに従う/キリストを裏切る、という、始終彼についてまわった二元論を、その死に際してついに超克したかのようである。信じた行為が裏切りにもなるし、裏切りの連続の生が誰かを支えることもまたあると。しっくりくる終わり。
今のこの寂しさったらないな。早く引っ越し当日になってほしい。