ヨブへの問いへの答え

昨日、社会的にはなんの影響もないだろうが、個人的にはとりかえしのつかない失敗をした。心に大きな亀裂が入ったなかで、「回復」について考えていた。ふと、ヨブ記の結末についての、学生時代の先生の問いかけが頭に浮かんだ。
ヨブは最終的にはもとの何倍もの財産や、もとどおりの人数の子宝に恵まれた。とはいえ、それは最初に失った財産ではないし、ましてや最初に死に絶えた、かけがえのない子どもたちとは別人である。これらの「回復」に対して、ヨブは果たして素直に喜んだのか?という問いかけ。
今日、震災にまつわる『Ministry』のいくつかの記事を読みつつ思った。ヨブは素直に喜んだだろう。ただし、悲しみつつ喜んだだろうと。ヨブは、壊れたおもちゃをもう一回買ってもらった幼児のように喜んだのではなくて、深い悲しみを知り、もう二度と還ってこない人間のかけがえのなさを知った、その死を悼みつつ喜んだ。
今、あらたな子どもが「与えられ」、財産が復興した。もちろんそれはもとどおりではない。人数が同じでも、あらたな子どもたちは死に絶えた子どもたちとは別人である。試練以前には戻らないし、戻れない。しかしヨブにとって、新たな命との向きあいは、もはや以前の命との向きあいとはまったく違う。ヨブは、このあらたな命との出会いが、まさにかけがえのないもの、その機会を失えば取り返しのつかないものであることを、今や知っている。そして失った命を深く悲しみつつ、死んでいった子どもたちに、生前当たり前のように接していたことを深く悔いつつ、「今度こそは」という改めの気持ちとともに、新たに与えられた子どもたちに接し、復興した財産を有効に使う決意をしたことだろう。彼はそのような意味で悲しみつつ喜んだはずだ。