分からない表情を

ぬいぐるみはおもしろい。craftholicの大きなぬいぐるみ二体を箱詰めするにあたり、連れ合いが「さみしそう」と言う。なるほど、箱に詰められるのを嫌がって仕方がないように見えてくる。
いよいよ明日は荷物運びだし。頭は次の任地のことでいっぱい。
今日は残念ながら、連れ合いは身心不調で礼拝出席できなかった。しかしわたしは彼女が居ると思って説教した。不在だからこそ、その存在が際立つこともある。また、わたしが礼拝に出て欲しいと願望しても現実に彼女が出られないからこそ、彼女の「他者」たることを実感もする。
最近つくづく思う。これは一般化できない、あくまでこのわたしの場合のことだが。礼拝に出られないことをはじめ、彼女がわたしの願望どおりに動かない/動けないことが、わたしが暴走することに対するブレーキとなる。わたしにとってのすべての他者体験の出発点である。
もちろん、夫婦元気ですばらしい牧師さんだってたくさんおられる。あくまで、わたしの場合。また、わたしが「ブレーキ」と思っていることが、彼女にとって、ひいては神から見て、祝福でもあるかもしれぬ。あくまでこのわたしについて言うなら、「なにもかも上手くいって」はいけないのだという気が、最近する。