そういうのもまた人間

3月31日
さあ、いよいよ新任地でのイースター礼拝だな。先週棕櫚の主日説教を東京の教会でやったはずなのだが、東京の日々が、もう遠い昔のように思われる。一緒に働いた先生から今朝励ましのメールを頂いて、あらためて「あれ?先週?」と思ってみたり。
4月1日(出張中)
自分を顧みて。信仰の証しも、内容があまりにも激動すぎる人生と、感動すぎるキリストとの出会いだと、場合によっては、聴き手が距離を感じてしまう(ちょっとひいてしまう)こともあり得るんだなあと。
疲れたんで、夕食に寄ったレストランで、珈琲をあまっあまに甘ったるくして飲んでる。うまい。
電車乗ろうとしたら、風で帽子が飛んだ。帽子のやつ、わたしのかたいあたまから解放されてうれしそうにころげ回り、水溜りで念入りに水あびしてくれたよ…
4月4日
出張疲れか、執拗な悪夢を見た。なぜか教会の人たちや家族までもが、わたしが教会のお金を横領していると確信し、いくら弁明しても「先生を信じていたのに、がっかりです」とか、「はやく皆さんに謝れ」とか返ってくる夢。夢のなかで怒り狂うわたし。きっと不安なんだろうな。
眩暈かな?と思っていたら、玄関へ向かって家がかなり傾いているようだ。
4月6日
このところへんな夢を見るな。部屋で友人たち(架空?)と談笑していたら、狼が突然乱入。噛みつかれ痛みと恐怖のなか、素手で格闘。「誰か手伝え!」と絶叫するも、彼らは恐がって見ているだけ。狼を殺したのだが、今度はわたしが化物扱いとなり、なぜか母から「お前は教会には受け入れられない」と。
友人たちが全く見に覚えのない面々だったから、これもやっぱり誰かに腹を立てているというのじゃなくて、疲れと不安の表出なんだろうな。今度の任地は自分には勿体ないほどの場所なので、失いたくない、みたいな。
なんせ3年近く無任所だったので、自分では意識していないけれど、「今度は失いたくない」「ここでなじんでゆきたい」みたいな執着はそうとうあるんだろうと思う。無理にそれを克服しようとしたり振り払おうとしたりしないで、そういう感覚もあるな、と、今は受け流しておきたい。