どこに畏れを見るか

会堂守の、建物にいなければならないもののとにかく暇で、神学書その他を読みあさった日々は、まだほんの2週間ほど前のことだったのだけれども、なんだかそれは遠い昔のようだ。
前任地(会堂守は飛ばして、主任牧師としての)では、飛ばし過ぎた。「おれが」教会をよくしてやる、みたいな潜在意識が、というよりも顕在的なそれがあった。当たり前だが、そんなことを教会員が歓迎するはずもなかった。わたしは、変わるか/変わらないか、に、目を注ぎ過ぎていた。
もちろん、日本基督教団においては教会は役員会制で、いろんなことを話しあって決めるのだから、変えるべきことはどんどん変えて、その時宜に適った改善をしてゆくべきだとは思う。ただ、わたしは信徒が改善/改悪の地平のシステム以上の何かを求めていることを忘れかけていた。
主に赦されてもう一度この地で牧師として、そして幼稚園の園長、理事長として、再出発することが許されたのであるから、むしろ今回は徹底して祈りの人として、これに当たりたい。祈りは聴くことから始まる。それは第一義的に神の声を聴くことであるが、殆ど同時に神が出会わせて下さった人の声を聴くことでもあるのだ。
わたしが遣わされたのは、地方の小さな教会だ。システムといったって、いろんな脆さもある。金銭的な限界もある。そういうことを「問題」という地平で捉えるのか。それとも、そこで出会う人に、イエス・キリストを見るのか。今日も礼拝後、涙する人に、わたしはありありとその背中をさするイエスを見た。畏れ。