偶像礼拝

 ここ数日、荒れ果てた生活だった。緊張の糸が完全に切れた。先輩から諌められるなどして、だいぶ回復。
 もちろん、被災者の方の苦しみに比べれば、自分の味わったことなど微塵ほどのものですらない。だが、希望(未来)を一瞬で奪われるということの、涙さえ出ない呆然とした感覚は、たとえ小規模であれ一応体験できた。
 いずれにせよ今回幸いだったのは、誰もが善意で動いてくれたことであり、誰をも恨む必要がなかったということだ。結果は悲惨だった。しかし経緯には意味があった。
 また一人のキリスト者として、いわゆる「人間的なものを絶対視してはならない」「人間を見るのではなく神を見よ」と言われていたことの意味も理解できた。それは人間を蔑視するという意味ではなく、人から与えられた好意にべったり甘えて依存し切るなということだ。
 人からの善意に心から感謝しつつも、その人やその善意を絶対視してひれ伏してしまうのではなく、どこかで自分を保ち、冷めた目でその出来事を見つめ受け取り直すような、ある意味で冷徹な距離感を持つこと。これこそがキリスト者のあり方の肝要な部分である。