スコレー

 昨日突然班長さんから「土曜日の休み、明日とって!」。というわけで朝から洗濯や、土曜日にやるはずだった説教の最終仕上げ。土曜は配達!
 引っ越してから、とくにアルバイトを始めてから、出勤時に小さな聖書を開いて福音書を読む以外に本をまったく読まなかった。夕方、久しぶりに段ボール箱のガムテープを剥がす。
 “これは裁く人〔arbitre〕の下す宣告である。誰も自分に赦免を宣することはできない。そこで人はみな自分を断罪し、そうすることによって自らよしとしている。それは次のように言う怠け者に似ている。《私はなんの役にも立たない。私には何もできない。私は何にもなれないだろう》、と。断罪は悔いること〔REMORDS〕を不可能にする。赦免は悔悟〔REPENTIR〕を考えに入れている。悔悟とは、悔いることを承認することである。だから赦免は思い上った〔orgueilleux : ORGUEIL〕自己断罪の反対である。赦免とは自らを信ずることを禁止することである。”アラン著、森有正訳、『定義集』、みすず書房、1988より「赦免|ABSOLUTION|」
 ギリシャ語のメタノエオー、ないしヒブル語のナーハム(創世記6:6とヨブ記42:6との訳しわけなど)にあるような、後悔することと心を改めることとの一体性、悔い改めの躍動感を、アランは「赦免」という言葉の定義から、見事に短い言葉で説明しているではないか。それは主の赦しの説明でもある。