メソジスト以上のメソジスト

 今日は身を寄せている教会の牧師の辞任の日だった。恩師から勧められての、渡米留学のための辞任。わたしは自分の辞任と比べ合わせ、「他人の芝生はゴールデン」的な模倣欲望に捉われたまま、今朝を迎えていた。
 けれども実際に最後まで手を緩めない彼の説教、牧会、人々との深い交わりを見て、最後には結局彼を抱きしめて「また会いましょう!」などと言っているのだった。そのときには、芝生が何色かというような発想は霧散していた。
 連れ合いの母親が癌に倒れ、召されていったときの彼の牧会。また、連れ合いが悩み苦しんで倒れたときの、やはり彼の素早い応対。彼は否定するだろうが(彼はコテコテの長老派のはずだから)、その足取りの軽やかさ力強さは、自覚的なメソジスト以上のメソジストでさえあったように思う。
 帰り際、今度はいい意味で羨ましかった。すなわち、次に会うときはわたしもまた、どこかの教会で牧会していたいなあと、素直にそう思わせてくれた、彼の涙であった。