ブログ的心理

 今日の礼拝では2コリ11:7−15が読まれていた。つくづく思ったのだが、パウロはまさか自己弁護に必死になっているさなか、その弁明のためのいわば「事務的な」手紙が、当事者以外にも回し読みされるどころか、はるかに時代まで超えて自分の信仰するキリストの礼拝のなかで赤裸々に読まれるなどとは想像もしなかっただろう。
 卑近な例えで言うなら、誰か牧師が他の牧師なり教会なりに宛てて、「自分は誤解されているけれど、そうじゃないんです」とメールしたところ、それが相手以外にも露見し、本人の予想外に広まってしまう、というような。パウロ自身が生きていたら赤面どころではなかったかもしれない。
 とはいうものの、事務的と言ってはみたが、かなり凝った文章ではある。日記というものが露見しない安心感と「でも誰かに読まれたい」という漠然とした期待から成り立つように、パウロもまた、己の私的領域なり内面なりが暴露されることを密かに期待していたのやもしれぬ。