営業

 “それではユダヤ人が負債として自覚したような現象は我々の生活には存しないかというと、そうでもないのである。我々は己れの行為の悪の自覚を言い現わす時に、「済まない」とか「済まなかった」とか言う。しかるにその同じ言葉を我々は負債に関しても用いている。大言海によれば、済ますとは「借りて還す」、「物を買いたる値を出す、払う」などの意であるから、「済まない」のはまさに負債である。(中略)してみると、我々がきわめて日常的に‘わび’の言葉として「済まない」と言っているのは、すでにSchuldの概念と相通ずるものを示していると言ってよい。”和辻哲郎倫理学(二)』、岩波文庫、63頁
 ほしおさなえ『夏草のフーガ』幻冬舎を読んではいるが、なかなか進まない。どうも「おばあちゃん」の描写についてゆけない。おばあちゃんでありながら、主人公の少女と同じ中一に逆戻りしているという、その状況の特殊さがどんな状態なのか、それをぱっと把握できる人は、大いにのめりこめるはずだが。
 風呂に入っているときに、ある方から折り返し電話。湯船につかりつつお受けする。 厚く垂れこめている雲が、ようやく、ほんの一瞬だが途切れて、その隙間から、やはりほんの一瞬だけ、光がさしたような。垣間見する希望。
 配達中に毎日10件営業せよとの命令が下っている。おとといは12件、昨日は9件だった。営業日報に報告したら、「結果は?」とだけレス。まあ厳しいものだ。  
 営業と伝道とは、ちょっと似ているように思う。毎日毎日会う人ごとにこまめに声をかけ、商品のよさを素朴に地道に説明し続ける。そのうちだれかが振り向いてくれると信じて。それこそ雨の日も風の日も、文字通り重荷を満載している日も、笑顔で。