タウよ

ずっと身につけていたタウ十字架ロザリオの紐が切れた。革紐を買って、「信仰、従順、貞潔」を表す三つ結びを三箇所に作り、上を結んで完成。今度は革だからもうちょっともつだろう。色もそのうち汚れて落ち着くはずだ。

前任地付近に赴任している聖公会の友人が職務でこちらに帰った折、飲みましょうと誘ってくれた。飲み、食べつつ、互いに思索し、実践するところのものを分かち合った。
そんなに飲んだはずはないのだが、店を出るとき視界が真っ赤になり、潮が引くような感じに襲われ、立っていられなくなる。かろうじて店外に出て、花壇の縁に横たわる。気がつくと友人。わたしのタウ十字架を握り、祝福の祈りを祈祷して呉れた。
いろいろな思いが溢れ、涙が止まらず。そうだ、前任地で彼が罪の赦しの祈祷を執行して呉れたときも、やはり泣いたのだった。
苦境にある人と「ともにある」ことが大事なのは言うまでもない。だが、彼が言葉と行いで示して呉れたのは、ともにあるところから突出して、「上から」、つまりキリストの代理として、司祭として執り行った祝福なのだ。
誤解を恐れずに言うならば、傾聴を主とした「ともにあること」は、ときに苦しみのキャッチボールに終わる。しかし、キリストの代理として按手を受けた司祭の、「上からの」祝福は、苦しみの循環を突き抜けた、突き破った爽快な喜びを与えてくれるのだ。生き直す喜びを。
もちろんこうしたことは、彼が司祭として、自身の持論のみならず、教派の伝統を基盤にしているからこそ可能なのかもしれない。わたしが「上から」同じことをすれば、それは単なる高慢ちきに陥る可能性もある。わたしの所属する教団は徹底した世俗的民主主義(役員会制度)なのだから。
ならば、そのうえでの「ともにある」こと、聖公会の司祭のような客観性を持たないわたしの牧師としての可能性は、どこにあるか。それを自分なりに探さねばなるまい。だがとにかく、今日上からの祝福に涙が止まらなかったこと、これは覚えておこう。