想像力の限界

 今日は明日に備えて礼拝を休んだ。明日仕事に行けなければ、もう、期間雇用社員=アルバイト、としてはちょっとまずいから。それにしても、日曜日の午前中にぼんやりテレビを見るなど、もしも洗礼を受ける前以来だとすると、中学生以来ということになる。で、当時と同じく、やはり『日曜美術館』。
 こうやって午前中を過ごして思ったのは、意外なほど何でもない、ということ。無任所教師になってこのかた「礼拝は最後の砦」とばかりに必死で出席してきたけれど。クリスチャンホームに育った方が「どんな犠牲を払ってでも礼拝に出る」「這ってでも」と語っておられたような感覚は、露ほども芽生えない。
 友人が「あなたはどこにいても牧師です」と励ましてくれたときは、それはもう嬉しいことこの上なかったし、今でも思い起こして嬉しい。とはいえ、それはそれとして、やはり「わたしはどこにいても牧師」というのも一つの神話であり、まずはわたしは明日仕事に復帰できるか心配している労働者なのだ。
 同時にそれとまったく矛盾や葛藤も感じずに、「だいぶ回復してきました。神さまありがとう」などと平然と神に健康のありがたさを感謝している自分もいる。イスラエルどころか、海外に行ったこともないわたし。この「神さま」が自分の場合「御仏の慈悲」とどう異なるのか。
 もちろん、自己弁明はいくらでもできる。教義学の語彙を用いて。キリスト論がどうとか。人格的出会いとか。だが、正直な原体験として。わたしのイエスは、はっきり言ってアングロ・サクソン人ゲルマン人なのではないか、飛行機に乗って来日した。
 かなり恐かったが、班長の携帯と課長代理席に電話。今まで休んだ謝罪と、明日から絶対出勤する旨伝える。両者とも淡々と、一切感情を見せず応対して下さる。その分恐いが(苦笑)。いい意味で、もう後がない。そうだいつもタウだよタウ、とロザリオを握りしめてみる。