アンセルムスが、それ以上大きなものがないようなものとして神の存在を演繹した。それに対してガウニロだったかが、同じ証明を「神」を「島」におきかえて、そんなもん証明になるかと反論した。信仰は別として、「証明」として、どちらが正しいのか分からない。
カルヴァン派アルミニウス派(メソジストも、かな)の二重予定説の論争も、これに似ているような気もする。わたしが救われるのか地獄へ突き落されるのかという運命は最初から決まっているのか否か。
だが、決まっているとして、それがどうしたというのか。ガウニロは発見できるかできないか分からない未知の島の可能性を語ったが、少なくともわたしの運命は、この地上の誰一人として、絶対に発見できない。わたし自身もわたしの未来を発見する可能性は、絶対ゼロである。
だとしたら、二重予定説が正しいのか否かを詮索することは、それこそ神に任せておけばよいことなのだ。それよりも大事なことは、「運命なんて最初から決まっていたに違いない」としか思えない自分自身や、あるいはそのように突き落とされ絶望している人と、何を分かち合えるかなのだ。
無任所になってこの方、落ち込むたびに被害妄想に陥り、活発に働いている牧師を妬んだ。旧約の故事とパウロに倣い、さしずめ彼(ら)はヤコブでおれはエサウなんだ*1、あるいはアベルでカインなんだと、神の選びを言い訳にしていた。
問題はそういう神の選びが実在するか否かではないのだ。そうやって他人を妬み、神の選びを自己憐憫のツールにしてしまう自分自身と、どうつきあってゆくのか、これだ。そういう自分の弱さを、あるいはもしも他人にそういう弱さを見たときに、否定するのではなくて、つきあいたい。

*1:マラキ書1:2−3“しかし、わたしはヤコブを愛し/エサウを憎んだ。”