恵みと恐れと喜びと

たいへん慰められることがあった。最近、感謝すると恐れが起こる。神の前に自分の小ささを恐れる。「こんなプレゼント貰える身分か?」と、ふだん神に不平ばかり言う自分を悔いる。そして改めたいと思う。
たぶんこういう感情が、信仰の動きのなかでいちばん、キリスト教徒でない人に説明しにくい。わたしもながいあいだ、クリスチャンになってからも、その種の恐れはたんなる自己卑下じゃないかと思っていた。あるいは、幸せな時に、今後不幸が起こっても大丈夫なように感情に保険をかけているだけだと。
しかしやっぱり、この恐れのなかで自分の罪を意識し、改めたいと願う体験がある。「恐れ」と書くのは、「畏れ」という語感があまり自分に馴染まないからだ。「こんなもの、ほんとうにもらっていいの?」という感覚は、自分のなかでは「畏れ」ではなく「恐れ」だ。自分の小ささや罪深さの意識と一体の。
そう書くと「素直に恵みを喜べよ」となるが、もちろん喜び、嬉しいわけだ。しかも恐いという。仏教でも、そういう感覚はあるんじゃないだろうか。かたちは違っても。