解釈されるもの

赤木善光『イエスと洗礼・聖餐の起源』の、シュトゥールマッハーとタイセンのところを読んだ。たぶん聖書学の人たちからは一番小馬鹿にされそうなシュトゥールマッハーの解釈が、教会で仕える者にはいちばんしっくり来る。彼が聖書→解釈→教会→解釈→聖書の解釈学的循環を肯定的に捉えているところも面白い。
タイセンの宗教学的な解釈を読んでいると、ルネ・ジラールの十字架理解を想起せずにおれない。ジラール社会学的に(たぶん社会学者からは小馬鹿にされるに違いないが)十字架を分析する。こういったアプローチにおいてはドイツ的、神学的な、長々とした教義的解説でなく、記号論構造主義的?)なスピード感のある解釈が行われる。分からないことははっきりと「よくわからない」で済ませる潔さ。マルクセン、シュトゥールマッハー、タイセンの比較のあとの赤木の感想も短いがよく分かる。神学部に入りたてのころに、わたしも素朴に感じたことを、神学者として簡潔に説明してくれている。すなわち、聖餐については資料が少なすぎる以上、それを解釈する際、解釈者の前理解が解釈の結果を左右する、と。わたしは聖餐論というよりも、聖書学そのものが、そういう要素を持つだろうと思っている。そして、解釈者の前理解ですか?当たり前じゃないですか!と開き直ったのが教義学なのだと。
ところで、『法華経』を読んでいたら世尊が舎利弗に語る、面白いたとえ話に遭遇。富豪の老人が大邸宅に住んでおり、何百人もそこに住んでいる。愛する幼子たちもいる。だが、老朽化したその家は限界にあり、とうとう火事になった!老人は、たった一つだけの出口から辛くも脱出する。すると、燃え盛る危険な家のなかで、なにも気付かず子どもたちが縦横無尽に遊びまわり走り回っている。「逃げろ!」と言っても何が危険なのか分からない様子。そこで、老人は子どもたちに言う「こっちにお前たちの欲しいおもちゃがあるよ。おいで」。子どもたちはおもちゃに釣られて無事屋外に脱出。すると、老人が用意していたのは小さなおもちゃではなく、たいそう豪華な、現代で言う高級スポーツカーのような乗り物だった、と。
これは大乗へと至る方便についての、世尊のたとえ話らしい。荒れ果て崩壊の危機にある世界でいきなり救いを語っても、誰も理解できない。だから方便を用いるのだと。老人の子どもへの愛が、如来衆生への愛と対応している。
コーランを読んでいた際にも、比喩はあった。しかしどちらかというと天上の楽園をハーレムに譬えるというような感じの比喩で、救いのプロセスそのものを比喩化したものはあまりなかったように記憶している。『法華経』の火事の家のたとえ話は、救われるプロセスそのものをかみくだいている点で、イエスの話に構造が似ているかもしれない。読んだことないけれど、『火宅の人』という小説があったのを思い出した。もしかして法華経のたとえ話から着想を得たタイトルなのだろうか。