奢りようやく端緒

漫画オンリー、文字だけが並んでいる本はとても受けつけることができなかったわたしが、ほとんど同時に、初めて夢中で読んだのは、寺山修司澁澤龍彦だった。テレビで格好良く特集でもされていたのかもしれない。わたしが自分のセンスでそんな本を選べるはずがない。
20代前半か。ちょうど大江健三郎の『死者の奢り』も、その頃読んだように思う(これはハッキリ記憶がある。ノーベル文学賞でテレビのニュースになったから!)。少女、硬質な少女、オブジェとしての少女、衒学的で隕石的な語彙のコレクション・・・・どれもすばらしい宝物に思えた。こうした趣味への開眼が、稲垣足穂森茉莉といった人々を知るきっかけにもなっていった。
しかし最近、少女の少女たることを研究し続けている友人が、そうしたオブジェ、いわば「美しき玩具」とでもいったような少女とはぜんぜんちがう少女を示してくれるようになった。
その一端が、たとえば矢川澄子という人からのさかんな引用であった。わたしは無知で、その名前すら知らなかった。なんと澁澤龍彦と婚姻していたことがあった人なのに。
そして少女研究をする友人の眼、ないしは友人の解釈した矢川の眼差しから照らされる澁澤の世界は、わたしが礼賛していたそれとはかなり違っているかもしれないと、最近思い始めている。
わたしが牧師となり、連れ合いが倒れ、わたし自身無任所教師となり・・・浪漫主義的な価値観の崩壊、挫折。それと機を一にするようにして、友人の少女論が目に飛び込んで来るようになった。
たしかに澁澤龍彦の、蒐集する美しさには、こたえられない心地よさがある。瀧口修造の書斎のコレクション群にも通じるような、久世光彦の永遠の時間のなかに生きる少女のような美しさ。でも、どれも、コレクションであり、鑑賞される少女であり、集められる美である。もちろん、集められるからこそ鑑賞できる。鑑賞させてもらえる。彼らの批評をとおして、わたしも美を知る。感謝している。だが、そこに現れる少女と、矢川澄子の少女との決定的な異なり。まだ矢川という人を知ったばかりなので、予感でしかないが、たぶん彼女の少女は集められる少女、鑑賞される少女ではない。鉱石や希少動物ではない。
少女論を論じる友人自身の内部にも同様の変化を感じる。おそらく友人も最初はおおむね澁澤的な少女、鉱石のようなそれ、自分の手とは異質なるものを希求するところから出発したのだろう。しかし少女とは年齢の少ない女のことではないという気付きを与えられたとき、友人の内部で、もはやコレクションされる少女像は消え去った。友人の探究をとおしてわたしも知った、60代以上、ときには80代の少女たち、そして生物学的にではなくジェンダーとして少女である人々。
こうした議論自体が男性的・傍観者的であり、当事者から見れば気持ち悪い以外の何物でもないのかもしれない。しかしわたし自身が男性であること、欲望を持った存在であることを隠して、クリーンでクールな中立者の装いをしても、少なくともわたしにとってはそのような態度ではフェミニズムの端緒にさえ到達することはできないと思われる。