スピードの代償

ツイッター上で、島田裕巳という宗教学者が、キリスト教について曖昧あるいは誤った知識を語ったために、キリスト者たちから批判を受けている。島田裕巳って聞いたことあるなと思っていたら、『私の宗教入門』(ちくま文庫)を書いた人だった。今回のツイッター論争は残念だ。あの本はとても面白かった。若き島田が、研究のために山岸会に参加して、しかしだんだんその共同体に没入し、内(共感)と外(観察)との境が曖昧になり、客観的に観察することができなくなるさまを赤裸々に書いている。そこから明らかになるのは、宗教を「客観的に」捉えることの限界というか難しさである。それは文化人類学をとおして青木保が語っていることと通じるテーマでもある(青木保儀礼の象徴性』岩波書店)。
『私の』の文庫版あとがきで島田自身が悔しそうに回顧しているが、彼は地下鉄サリン事件より前からオウム真理教を研究対象としていた。それがきっかけとなって事件の後に「オウムを擁護した学者」として激しい突き上げを受けることとなり、結局は働いていた大学も追われたという。今回のツイッター騒動で彼が論争について「宗教学者が迫害を受ける」と表現し、余計に相手の怒りに火を注いだ結果となったのには、彼自身のそういう心の傷もあるかと思う。
もちろん彼をかばっても一文の得にもならないし、キリスト教について曖昧で誤ったことを宗教の「専門家」の彼が語るとすれば、問題点は指摘されねばならない。ただ彼が「迫害」「糾弾」云々にこだわる(こだわってしまう)背景に、そういうものがあるのではと思ったまでだ。そして今回の論争で彼がいかに誤っていたとしても、少なくとも彼の一著作は、わたしにとってとても学びになったと。相手を仮に徹底的に批判するとしても、そのことは忘れないでおこうと。
ツイッターは便利だが恐ろしい。覚え書きみたいなこと、ふと思いついたワンセンテンスは、当たり前だが主観的で、学術的な検証もなされていない。しかしそれの、しかも一連のツイートのなかの一部だけが、どんどんリツイートされる。そして批判は雪だるま式に膨らみ、「こいつはアホだ。見識がない」ということになる。批判を受けるほうも、面と向かった論争とは異なり、ネット上でそう言われると、その独特の活字フォント、画面の明るさ、個室でそれを読む環境などのせいだろうか、文意以上に激しいショックを受けたり、怒りがこみ上げる。するとよけいに冷静でなくなり、ますます検証の浅いレスポンスを素早くつけてしまう。そうすると、学者という肩書がさらにアイロニカルに作用し、ますますフォロワーからその誤りを指摘されたり、その感情的レスポンスがリツイートされ、失笑・嘲笑の対象とされたりしてしまう。
かといって慎重に慎重を重ねていたら、もはや何もツイートできなくなり、そのスピード感は削がれるか、フォローする人のツイートを読むだけの道具になる。ツイートする宗教学者の、というより、あらゆる分野における専門家の、自身の専門分野ツイートにおけるジレンマだろうか。わたしもブログでこんなことを書く限りは、・・・・・。