デウス・エクス・マキナ

ウルトラマン』第37話「小さな英雄」を観る。イデ隊員の問いをとおして、「機械仕掛けの神」的なウルトラマン介入による解決の矛盾に突っ込みを入れている。ウルトラマンに頼めば、科特隊なんか必要ないじゃないかと。製作者側にも葛藤があったことを窺わせる。作品を造る行為それ自体への誠実さ。あるいは、子どもにそういう「解決」を見せてよいのかという倫理的誠実さ。科特隊の戦いをとおして製作者の戦いが見えてくる。
イデ隊員はウルトラマンに甘えようとした瞬間から怪獣に恐怖を覚え、戦いを放棄して「ウルトラマーン(たすけてー)!」と絶叫する。『ウルトラマン』という物語全体にカギカッコをつけるような、自己批判的な物語。ピグモンへの追悼場面がいかにも戦前世代の感覚で(葬送ラッパ的音楽など)、新鮮でもあるが。
ジャミラの回なんかもそうだったが、イデ隊員って、物語をカギカッコに入れる重要な役回りだ。子どものころに再放送を観ていたときは、ただのひょうきんなキャラだと思っていたが。
ああいうのって、『機動戦士ガンダム』でアムロが「ガンダムが戦って“やってる”んだ」的な価値観をどう克服するか、みたいな物語(砂漠でラルと出会う前のブライトとの確執など)に通じるなあ。
ウルトラマン機械仕掛けの神と見立てる。自分が機械仕掛けの神を信じていると。ウルトラマンが来てくれない/神が苦しみに終わりを見せてくれないときの、イデ隊員の苦悩すなわちわたしの躓き。*1

*1:レヴィナスの『困難な自由』の一文。“罪なきものが苦しむ世界に私たちはいる。そのような世界でいちばん簡単な選択は無神論を選ぶことだ。無神論を選ぶ人はこんなふうに考えている。神様というのはよいことをした人間には報償を、悪いことをした人間には罰を下す存在だ、と。つまり、神様とは、正義の配分をつうじて、万人を『幼児』として扱うのだ、と。無神論とはそのような考え方をする人がとる選択肢である。そういう理屈で、あなたたちは天空から住人を追い払ってしまった。なるほど、そうやってこちらのつごうで簡単に店立てを喰わせることができるということは、ずいぶんと低級な存在がこれまであなたがたの頭上には住まっていたわけだ。ではあなたがたに問いたい。このからっぽになった天空の下で、あなたがたは、なぜまだ意味があって善なる世界がありうると思えるのか。”“秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者のあり方、それを受苦と呼ぶ。この受苦が、いかなるかたちであれ救い主として顕現することを拒み、地上的不正の責任をすべておのれの身に引き受けるような人間の成熟をこそ要求する神を開示するのである。”内田樹著、『「おじさん」的思考』、角川書店、2011、「単行本版あとがき」より