ただいま無職

連れ合いが病に倒れたため、7月でとある地方都市の教会を辞任。この仕事は退職金は若干もらえるものの、社会的位置づけは代表役員であるため、失業保険に加入できず、失業手当もない。次の任地を紹介してもらえるまで「明日はどっちだ?」の世界だ。なんとも座り心地の悪い思い。
連れ合いは出先で倒れて入院した。だから辞任の決断も、引越しの荷造りも、すべて独りで行った。あれが猛暑になる前であったのは幸いだった。
そして地元に引き上げて、かれこれ3ヶ月。多くの方々の有形無形の支えを痛感させられる。信仰の世界において、恵みの喜びと罪の悔い改めは矛盾しない。「こんなに頂いていいのか?」と多くの方々からの一方的な支えを受け、そこに自分を超えた神の愛を痛感させられるとき、あらためて自分の小ささを実感する。自分の小ささ、自分のわがままさ、自分の弱さ。すなわち自分の罪深さを。そして、これらの恵みに少しでも応えたいと、身体が焦れ、よじれる。
それは自己卑下や極端な謙遜とは、どこか違う。もっと自然に生じる体験。もしかしたらキリスト教信仰とさえ言えない、プリミティヴなものなのかもしれない。
最近わたしの属するキリスト教団では罪を語るよりもむしろ癒し、赦しを強調する動きがある。やたら声高に「おまえは罪人だ、悔い改めろ」と脅してきたことへの反省というか、反動だろう。もちろんそれはそれでいい。だが、ほんとうに大きな恵みを感じるとき、それは大きな恵みを前にした、「こんな恵みを受ける資格があるのか、このわたしに?」という意識と不可分なのではないか。そしてそれは罪の自覚、悔い改めの運動の始まりなのではないだろうか。