ヨブ記にからんで〜ルサンチマン

 聖書の通読をわたしよりあとから始めた連れ合いだが、今では彼女のほうがずっと先まで読んでいる。今はヨブ記を読んでいるようだ。彼女は推理小説などが大好きで、三人称の物語進行に慣れている。だが、ヨブ記詩編のような一人称の独白続きの記述は疲れるようだ。「これってなにがいいたいの!?」と質問をぶつけてきた。
 
 高校を中退した頃、それこそ素朴な質問を神学生にぶつけたことを思い出した。「かみさましんじてたって、なんにもええことないやない!」。いつも親身になってひたすら聴いてくれた神学生が、初めて具体的に答えてくれた。「ヨブ記を読んでごらん。」。
 当時は口語訳だし、漫画しか読まないわたしには殆ど文意はつかめなかったと思うが、とにもかくにも、生れて初めて通読、読了した聖書箇所は、このヨブ記だった。
 
 連れ合いとやりとりしていると、自分がヨブに答える友人たちの一人になったように思えてくる。友人たちは最初、苦しむヨブの現実に圧倒されて、話しかけることさえできない(2:13)。しかし、現実に対して沈黙することは、現実を、その苦しみを一緒に引き受けることだ。それは恐いことだ。だから彼らは必死で喋ろうとする。彼らはあれこれ現実を解釈してお喋りを重ねることによって、ヨブではなく自分自身を安心させているのだ。
 
 口語訳をかろうじて読み終えた頃は、わたしはヨブに自分を重ね、親身に慰めてくれる教会の人たちに「分かってくれない」と敵意を剝きだしにした。そして彼らをヨブの友人たちに重ねた。しかしそれはちょっと軽率というか、若気の至りだった。ヨブの友人たちは友人たちなりに信仰を深くもっており、ヨブのことを心配もし、だからこそあれだけの語彙も繰り出すことができる。しかし同時に、そこに彼ら自身の弱さが深く根ざしているということ。饒舌が、むしろ恐れから発しているということも事実なのだ。
 
 わたしの友人が苦しみのうちに発した言葉「真理を追求することが、ほんとうにそんなに価値のあることなんだろうか?」。価値があるかどうかは分からない。だが、少なくとも今のわたしが警戒すべきことは分かる。わたし自身は真理を追求するヨブであると見なしがちであること。真理を追求していない“かのように見える”人々を、勝手にキャラクター付けして分類しがちであること。それらはルサンチマンである。
 ヨブの友人たちもまた、彼らのやり方で真理を求め、恐れに対処しようとしているということに、思いを馳せてみたい。