よわさをほこる

 このところ週一度、母校の神学部の講義に潜っている。
 担当の学生さんが急病とかで、急遽、前神学部長先生がチャペルアワーで礼拝を担当しておられた。
 2コリント12:1−10を中心に、1コリント12:22以下を交えて、母校における目の不自由な方の入学の歴史を語り、そこから、むしろ「弱い」と我々が見なしていることをとおして豊かな共同体が形成されるというメッセージ。きわめてオーソドックスながら、先生御自身の厚い(篤い)体験に裏打ちされた、ユーモアや軽さの裏にどっしりと福音の詰まった説教だった。今の自分の身の上を思いつつ、実感をもって受け止めた。
 午後からは気の置けない友人2名と、キリスト教芸術を契機に信仰や召命についてあれこれ語り合う。突き詰めればそれらも「強かったら」話題にはならないようなテーマばかり。弱いから、揺らぐから、だからこそ、それらは常に確認されねばならず、言葉に出して分かち合われねばならぬ。今日はそんな一日だったのだ。
 クリスチャンホーム育ち、気付けば自分もクリスチャンという条件下で、信仰を対象化する困難。その一方で、家族も友人もクリスチャンではない、自分だけが信仰の道に入って、それでもぶれず逸れずに信仰を保つ困難。どちらも困難という点では共通なのだ。それを「弱い」とつくづく自覚するとき、なにか積極的なものが出てくるかもしれない。