消極性/受動性と積極性

 イザヤ書を39章まで読む。こんな文言に語りかけられる。
“ まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。
 お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。”(30:15−16)
 たとえば箴言では、外国人や行状のあやしい者とは付き合うな、といった警句が随所に見られる。災いのもとになりそうな要素をことごとく避けることで、アパテイアの境地に達しようということであろうか。災いに「なりそうな」人物との交際を絶つことはトラブルの少ない安定した人生をもたらすかもしれないが、可能性の広がりもないように思われる。それは消極的な安全である。
 しかし聖書にはそうした消極的な安全だけが語られているわけではない。上記のイザヤ書の引用など、次の任地を告げられるのを待つだけの身、無職でいつ復職できるか見込みが立たない身としては、文字通り身につまされる言葉である。待つことの難しさ。しかし焦れば焦るほど、自分の焦りによって不安は増幅されるという真実。この場合の「待つこと」は、消極的な態度ではない。
 この場合の待つことは、傾聴にも似ている。相手の話をよく聴かずにべらべら喋り倒して満足することと、自分の状況をじっくり吟味せずにおろおろ動き回ることとは、相手の違いこそあれ、本質的には同じではないか。明確な他人のなかにであれ自分自身のなかにであれ、静かに待ち、そこに居る「他」に耳を傾けること。それは積極的な受動性に他ならない。