こうもり

 A氏に私淑し、B氏に私淑する。ところが、A氏とB氏とは文字通り政敵である。ふたりの意見は正反対。憎しみあってすらいるかも。ところが、その生き様は、少なくともわたしから見て、どちらも尊敬に値する。
 そこで、わたしの真意が問われる。A氏がB氏を手厳しく批判(非難さえ)しているのを聴き、あるいはその間逆を聴き、胸が痛む。ところが、「そうじゃないんです」の一言がどうしても言えない勇気の無さ。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E6%80%AF%E3%81%AA%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%83%A2%E3%83%AA 卑怯なこうもりではなくて、身を挺してあいだに立つようなこうもりでありたい。今の自分は前者だ。
 たとえばC牧師に、連れ合いの親族がどれほど霊的慰めを受けているかを思う。またその牧会の丁寧さを。しかし「議場」での彼の悪名高さ。さらに言えば、悪名高いと見なし、逆にCの側からもそう見なし返されるであろうD牧師の、これもまた信徒や地域に対する真剣な関わりを思う。
 すべては理想論かもしれない。だが議場ではその場での意見がすべてであるのは自明のこととして、それでもなお、その「背景」、それぞれが持っている厚みに思いを馳せつつ歩み寄ることはできないか。これらはすべて、こうもりの独り言でしかないのか。