聴く、考える、食べる。

 実家に置き去りにしていたワルターモーツァルト交響曲第40番・・・』を前任地赴任以来、数年ぶりに持ち帰って聴く。ベートーベンもそうだが、当時はワルターが好きだったようだ。でも今聴くとやっぱりこれも重い。カール・バルトはこんな感じのモーツァルトを聴いていたんだろうか。
 
 サンド『ユダヤ人の起源』を読み続ける。ネイションを、あらゆる「強固さ」を自負する団体に置き換えてみても良い。そこでは起源や伝統が強調され、その集団の歴史は一本の糸であることが幻想される。
 保守的キリスト教徒が輪廻思想を否定して「キリスト教歴史観は終末に向って一本線である」と言う。たしかに教義として説明するならそう言えなくもないが、おそらくキリスト教を連綿と支えてきた一般の人々は、それこそサンドが言うように「モザイク」的聖書の断片の集まりによって信じただろう。
 使徒言行録は重要だが、そこから一本線の歴史「のみ」を抽出して強調すれば、一本線からはみ出した「と思われる」人々を、ことごとく排除する否定的な動きしか出てはこないだろう。
 キリスト教徒の一部はかつて進化論に激しく抵抗したというが、その人々でさえ、創造から終末への「進化」とは言わぬでも「進展」の一本化された道のイメージを、ダーウィンから触発されたのだ。モザイク的信仰イメージの集まりではなく、一本の道に整理された教義学へと。
 
 ハンバーグを作る。手間はかかるが、食べるのは一瞬。かつて5人家族分のハンバーグをせっせと作って呉れた母を想い感謝。
 末期癌の義母に作った天ぷらを思い出す。ほんとうに美味しそうに食べて呉れた。さらに進行してもはや何も食べられなくなったときでさえ、ふろふき大根につける辛子味噌を舐め、淹れた番茶を口に含み、「美味しい」と微笑んで呉れた。あのときほどの料理は、あらゆる意味で、もう作れないかもしれない。