強制自白

 哀歌からエゼキエル書へと読み進めていると、当然ながら「主の前に罪を犯した」という告発が連呼されている。自分たちの不幸は自分たちが罪を犯したからだ、そうだとでも思わなければやっていられない、そんな悲痛も感じる。
 プロテスタントで贖罪がことさらに強調されるのも、罪という言葉に自分の抱える不条理を託したい、そういう心情もあるのではないか。「そうだ、今こんなに辛いのは自分が罪深いからだ。」、そう説明することで不条理を条理にしたいという。
 それをおのれの事として考える。果たして「わたしは罪人です」と祈るとき、わたしはほんとうに悔い改めて祈っているのだろうか。それとも、湧き上がる苦しみからとにもかくにも逃れたいために、「わかったわかったおれが悪かったから」と落としどころを強引に捻り出しているだけなのか。
 強制自白。これほど詰問されていても自分は無罪なのだという真実を直視し貫き通すよりは、「そのとおり。わたしが犯りました」と言ってしまうほうが、その場ではとりあえず楽だという心境。贖罪信仰が拷問/自白にならないために。