預言と予報

 預言と予報の違い。予報は適切に用いれば被害を避けることができる。預言は避けられないことを語る。そして聴く人間は、実際それを避けられなかった、後悔する(振り返る/悔い改める)人間である。申命記18:20-22*1と組み合わせることでのみ、イザヤ書6:9-10*2の不条理は理解できる。
 ルカ8:9以下のイエスの言葉*3も、たとえが預言と似た性質をもつことを語る。たとえを鮮明に理解する人間は、たとえられたことを実際に失敗した人間、避けられなかったことを後悔し、そしてそれは自分では決して避けられないことを知った人間である。

*1: 以下、引用は新共同訳“ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。”

*2: “主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。”

*3:“弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」”