赦し

 聖公会司祭の友人と久しぶりにスカイプ。キリストの御前に自らの小ささを思う、悔い改めからの出発。その原点をあらためて分かち合った。教会への強いニーズに「癒し」があるが、少なくとも教会では、罪の赦しというテーマをとばして一気に「癒し」へと向うのは無理があるように思う。
 日々自己の限界を思い知らされ、赦されたいと願う。それはどんなに親しい人から「あなたは今のままでもいい」と言われても、納得できない類の苦である。映画『ヤコブへの手紙』で、まさにこの「人にはできないが、神には」というテーマが語られたとき、涙が止まらなかった。きっと神ならばわたしを。
 前任地を辞する際、友人は遠方から駆けつけ、言ってくれた。「どこにいようと、あなたは牧師であることを忘れないで下さい」。それは、自分が復活の主イエス・キリストによって罪赦され、生かされてあるという自覚そのもののことだ。