信仰体験の場所

 『正法眼蔵』の「恁麼」を読んでいる。悟りというか、仏の智慧が閃く瞬間みたいなものを、とても丁寧に追いかけている。智慧があったのでもなく無かったのでもない。ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』を読んでいたときに味わった不思議を思い出す。あるときになにかを思いついたとき、それはどこにあったのか。なぜ今思いつくのか。思いつくとは何か。とくに、それがこころやからだを衝き動かすような「思いつき」である場合、それはわたしへと「到来」したような体験である。
 バルトとブルンナーだったか、神の啓示は人の外から一方的にやって来るのか、それとも人の内面にも受け取る器があるのか、みたいな論争があったという。それはバルトの見方に従えば明らかに「外から到来した」としか思えないだろう。罪人たる人間の内側から、神への接近があるはずはないから。そしてブルンナーにしてみれば、自己の体験の蓄積がその背景にあるはずだ、とも思うことだろう。人間に神を知る何の契機もないなら、どうして啓示が啓示であると知るのか、と。
 しかしそもそも神の啓示を「外からだ」「内側にもあった」と客体化し、場所を同定しようとし、ましてや一方が他方の見解(体験)を虚として否定するなど、啓示の不思議さからすれば小さなことなのかもしれない。道元の洞察を、西欧の神学は「優柔不断」と笑うか。