受難日に

 http://sankei.jp.msn.com/world/news/110422/erp11042208060000-n1.htm
 ローマ法王は、日本人の子どもの問いかける神義論に、どう答えたのだろう。
 受難日の祈祷会に喪服で出席。信徒が交代で朗読する、キリストの十字架の七言を聴いては沈黙しつつ、最小限に抑えられ選び抜かれた讃美歌を賛美して過ごす。牧師の悔い改めの説教に、悔い改める回転の方向というか、その運動を観る。こんな心静かな受難日も、久しぶりである。
 昨年まで「暗い」「難しくて分からない」「希望が欲しい」「癒されたい」というニーズに揺さぶられ衝き動かされて、キリストの受難そのものを観ることを文字通り「見失っていた」。今日、牧師と信徒が呼応しあい、しかも静謐な受難日の礼拝に、十字架で死にたもう主と、その教会のゆたかさを観た。
 母から貰った「紀州うすい」で、久しぶりの豆ごはん。
 たまたま読売テレビをつけたら、合衆国の福音派を特集していた。(考えられない!?禁断ワールドII 〜日本人の常識崩壊SP〜)あらためてその伝道力を思い知らされる。
 テレビでやっていたような福音派の雰囲気はよく分かる。自分もそういう信徒の多い教会で洗礼を受けたからだ。地球は六日で出来た、この世界が出来て六千年くらいだと確信する人もけっこう居た。わたしも説得されたが、そのたびに反論した。
 しかし牧師はわたしの疑問や反発をよく受け止めてくれ、話を聴いてくれた。そして答えられる範囲で精一杯答え、祈ってくれた。そして何より自教派の神学校よりも総合大学の神学部のほうがわたしに向いていることを見抜き、そちらを強く勧めてくれたのもその牧師だった。
 だからかもしれない、わたしは福音派⇔正統派ないしリベラルとか、福音派⇔社会派、といったような二項対立にあまり共感が持てない。