ことのは

 万葉集を読んでいたら「讃岐の狭岑島に、石の中に死れる人を視て、柿本朝臣人麿の作れる歌」というのがある。柿本人麻呂が旅の途中、岩場に行き倒れて死んでいる巡礼者か旅人を発見し、鎮魂のために作った挽歌らしい。
 現代人なら岩場で遺体に遭遇しただけで卒倒せんばかりに驚き、ショックも大きく、鎮魂どころではないだろう。飛鳥時代の人間がどれほど死を身近に感じ、また、歌をはじめ「ことのは」がどのような霊的な力を持つと信じていたかが覗える。この時代の人にとって歌はいわゆる「文学」ではないのだ。
 現代に生き、どうしても活字群を「文学」と見てしまうわたし。聖書も、その例外ではない。つねに意識しなければ、聖書はいきいきとした霊的な「ことのは」であることを止めて、わたしにとって芸術的鑑賞の対象となってしまう。
 新共同訳聖書のヨハネによる福音書で、ロゴスを「言葉」と訳さず「言」と表記して「ことば」と読み仮名をつけていることの深さ。聖書が書かれた時代そのものの感性で福音書を受容することは現代人のわたしには不可能だとは知りつつも、それでもなお、その受容に接近したい。