言葉の到来

 やっと増谷文雄訳注『正法眼蔵(三)』を読了。前任地からちびちび読んでいた。全部で(八)まであるわけだから、まだ半分も読み終わっていない。道は長いが、折にふれて取り組んでみよう。
 それにしても「行持」の巻はよかった。“仏祖は心身如一なるがゆゑに、一句両句、みな仏祖のあたたかなる身心なり。かの身心、きたりてわが身心を道得す。”とある。仏の語った言葉は、仏そのものである。そしてその言葉であり仏であるものが、わたしの心からだを導くという。
 この一言に至るまでに、延々と中国の歴代の禅僧たちの、想像を絶するような厳しい修行が語られている。道元にとってはすべて「今」なのだろう。自分が直接に教わった師である天童和尚も、ずっと昔の時代の菩提達磨も、どちらもまるで同時代人のようにいきいきと語っている。
 柱上に座した聖シメオンのことを思い出す。あるいは聖グレゴリオス・パラマスの神学。自分の身体を使って、考え、行い、時間をかけて問い続け、見つめ続けた末にこそ、語り得る一言があるということ。そしてその一言は自分で練るのではなく、「到来する」ことを、先駆者たちは教えてくれる。