今こうやって生きている

 ドストエフスキー『悪霊』第2部第1章末のシャートフとスタヴローギンの会話のなかに、既に『カラマーゾフの兄弟』の大審問官のテーマが出てきていた。読む順番が逆だけども面白い。究極のところ倫理の基礎は何なのか、いつも揺さぶりをかけてくる。
 http://vanruler.protestant.jp/I-370.html 関口康訳、ファン・ルーラー著『神が人間になられた』を読む。最近ボンヘッファーに集中していたわたしにとって、非常に新鮮な風が吹いてくるような。
 C・S・ルイスだったろうか(チェスタトンだったかもしれない)。子どもの「もっと、もっと」と飽きずに遊び続けるエネルギーと、何回も止まらずに昇り続ける太陽と、子どものような熱意で飽きずに人間に関わる神とを語った神学者は。それに似た大胆さを感じる。結びにきっちりヘーゲル歴史観に対する否が語られているのは、1955年という時代のためだろうか。
 じっくり味わうべきなのだろうが、勢いがついてhttp://vanruler.protestant.jp/I-391E.html 関口康訳、ファン・ルーラー著『真理は未だ已まず』まで読む。ここ数年で読んだマクグラス『科学と宗教』やトマス・F・トーランス『科学としての神学の基礎』を思い起こす。マクグラスが生れるかどうかの時代に、こうしたダイナミックな主観性と客観性との総合的考察があったのかと思わされる。科学と宗教というテーマでキリスト者はアレルギー的に科学を否定しがちだが、全力で科学を肯定し俗なるものに没入しつつ、しかもそこから自由である視座がある。変かもしれないが『般若心経』の読後感さえある。