新しいこと、古いこと

 ずっと頼りにしてきた仕立て直し屋さんが閉店していた。そこで、iPhoneで今居る場所と「寸法直し」で検索、新たな(知らなかっただけで古い)職人さんに依頼。便利な時代を痛感。昔気質なおばさんが「検索で一番に出たでしょ」と言うのが落差を感じておかしかった。
 阪急電車の窓から、夙川の鯉幟が泳ぐのが見えた。昨年、同じ鯉幟を見たときの自分の心境を思った。鯉幟を見ながら夙川を下り、辿り着いた教会。精神科病院では携帯電話は禁止。だから、わたしが入院中の連れ合いと電話できるよう、そこにいたみんなが財布や箪笥に眠るテレホンカードを呉れたのだ、彼女が病院で使えるように。これが厚い祈りでなくてなんであろう。しかし今年は、電車で窓外を眺める、その側に彼女が居る。
 ファン・ルーラー著、関口康訳、「歌え、受難週にも」http://vanruler.protestant.jp/zingen.htmlを読む。渋面しないで素直に救済を喜び、賛美する。逆説をやたらに連呼するのでなく、キリストの受難に自己の苦しみを重ね思い、希望を見る姿勢。逆説のヒステリックさから逃れ、苦しみが希望、そのミステリーを素朴に味わう信仰。あたたかい。
 仏教については、実は彼がキリスト教において強調する苦しみの肯定的意味は仏教にもあると思う。苦しみの否定→克服は、どちらかといえばバラモン的、上座部的なものだろう。イスラームについては「コーラン」を読んでいる限り彼と同じ印象。