帽子をかぶり直して

 ソフトを帽子箱に片付け、パナマを取り出すと、冬が完全に終わった感じがする。
 

 ビンラーディンの殺害について、メルケル首相が喜んだことをドイツのキリスト者たちが厳しく諌めているという。ふと思う。もしも、ボンヘッファーが参加したヒトラー暗殺の計画が成功したとしたら、ボンヘッファーはそれを「喜んだ」のだろうか。友人がくれた、テートの論文のコピー*1によれば、ボンヘッファーは自らの行為を国家反逆の罪と国家の運命に黙って従う罪との正反対の方向からどちらも「罪」として厳しく断罪していたように思える。もし計画が成功したら、彼は自殺しかねなかったのではないかと思えるほどの罪意識がそこにある。それほどの罪意識をもって、それでも計画に関わった彼。
 アメリカの要人たちも、そのくらいの葛藤、意識をもって、ビンラーディンの殺害に参与したのだろうか。(もちろんこんな発想にはボンヘッファーの亡霊を英雄として持ち出して今生きている彼らを断罪しよう、という危険もある。歴史に「もしも」なんかない。)
 いずれにせよ、どんな究極の理由があるにせよ、裁判も経ずに複数の人間が一人の人間を殺害するのだ。しかも政府の命令によって。そこには葛藤があるはずだ(あってほしい)と思う。葛藤はややもすれば優柔不断と同一視されるし、また葛藤することで決断が遅れ、結果が重視される場面では「失敗」とみなされることもある。しかし、早急な答えの前に問いを真剣に吟味することは、人間の重要な要素だと思う。科学者やジャーナリストや評論家やボランティア、医療関係者、自衛隊、政府関係者etc.・・・・・それぞれに与えられた役割があるように、宗教者にも宗教者の役割が与えられて在る。葛藤はその重要な要素であるはずだ。
 葛藤が「傍観」とも違うということは、そう簡単には共感してはもらえない。大学の先生に教わったことを思い出す。スクールとかスコラの語源のスコレーは「ヒマ」という意味だと。ヒマ。時間に余裕があるかないかではなくて、事柄に対して余裕がある、すなわち事柄から自由であるかどうかが「ヒマ」という意味だと思う。事柄に全力で関わり、すっかり没入するほどに事柄を愛するが、しかも一歩引いて、神とともにその事柄を受け取り直す作業。

*1:H・E・テート著、宮田光男他訳、『ヒトラー政権の共犯者、犠牲者、反対者―“第三帝国”におけるプロテスタント神学と教会の“内面史”のために』、創文社、2004.