唯一神

 段ボール箱のレコードをジャンルごとに別の箱に入れなおしたりしているが、どうも収まりが悪い。部屋の片付けもうまくいかない。思えば前任地からの引越しの際、どうやって一人で、あんなに大量の荷物を荷造りしたんだろう。たった1ヶ月かそこらで。あんな暑い時期に。
 公園で撮影。夫婦かな。

 来週水曜にいただいたお仕事を、暇人ゆえに今すでにやっていた。一つ一つの仕事が有り難い。仕事を終えて、あらためて『コーラン』を読む。仕事のために取り組んでいた箇所がヨハネ6:60-71であったこともあり、よけい面白い。コーランでは、神が子どもを生むはずがないと何度も繰り返される。
 コーランを読んでいて面白いのは、躓きがない。神は神であり、人間は人間である。人々は唯一神アッラーを拝むべきであり、そうしない者は地獄に落ちるだろう。というわけで、裁きや地獄がいかに恐ろしいかが力強く預言され、楽園が、とくに男性にとっていかに楽園であるかがいきいきと語られる。
 イエスが自分が「天から降ってきた」と言い、しかも「わたしの肉を食べ」「わたしの血を飲む」と語ったとき、人々は露骨に嫌悪感を催した。「ひどい話だ」の「ひどい」(スクレーロス)とは乾燥して固い、ガチガチ、あるいは、じゃりじゃりでもして、到底呑み込めたものではないというイメージである。
 イエスの語りはコーランのように一貫していない。肉や血を熱く語るかと思えばその直後に「肉は何の役にも立たない」と言ったりもする。まさに一人の弱い人間が、弟子達に何かを伝えようと、言葉を変え表現を変えて、必死で訴えている姿がそこにある。言葉尻を捉えれば矛盾だらけである。
 コーランで神は子を生まないというとき、一つには当時天使が神々の娘と崇められていたことへの反論であり、さらにはイエスが神の御子であるとするキリスト教への反論である。この反論、そしてイエスの生涯を思うとき、なおさら「イエスはキリスト、神の御子」との信仰が鮮やかに浮かび上がる。
 20世紀までに西欧のキリスト教徒がアジアやアフリカで行ってきたことの歴史を考えれば、アフリカ系アメリカ人など非常に多くの人々がキリスト教からイスラームへと改宗していることも頷ける。
 イスラームの神学もおそらくキリスト教のそれと同じくらい多様で複雑ではあろう。しかし『コーラン』の表現はきわめてシンプルでプリミティヴな響きを持っている。コーランが朗唱されるあの声やモスクでの全身を用いた礼拝は、今も多くの人々をムスリムたるべく招き続けているのだろう。
 『タイムスクープハンター』録画を観る。言葉遣い、垢の付いた衣装、あぶらぎった髪などが、無名の人々のスリルを最大限に盛り上げる。