古典そして今語られる言葉

 野田弘志が恩人の葬儀において死と存在とのぶつかりに驚愕するとき、激しく頷くものがあった。彼は柩のなかの故人を撮影し、細密に写生しながら、死という消失において遺される存在のなにものかを追っていた。
 そんなこんなで、昨夜なかなか寝付けず、今朝は頭が重い。与謝野晶子の『みだれ髪』を読む。“淵の水になげし聖書を又もひろひ空仰ぎ泣くわれまどひの子”の一句に、氷嚢で首冷やす心地。
 『悪霊』を読んでいるとアジビラを人々が気にしたり恐れたりしている。ロシアで共産主義が成立する過程なのだろう。アジビラは現在のアラブ世界におけるTwitterや、日本の2ちゃんねるにも通じるメディアなのかも。
 学生時代、神学部の資料整理のアルバイトをしていて、風化しパリパリになった紛争アジビラを何枚も見たが、そこにある好き放題な言葉の勢いは、2ちゃんねるの面白さの先駆に思われたものだった。学生は運動目的だけでなく、祭りとしてのアジビラを愉しんでいたのだろう。
 臨床牧会学に今日も出席。代表者2名がチャプレンとクライアントをロールプレイし、皆でそれを論じ合う内容。こういうのがわたしの学生時代にもあったらよかった。相手のほんの一言に隠された苦悩を読み取り、深く掘り下げて聞き取ってゆく訓練。