規律正しく

 結婚式の業者から「◯◯というルールになっております」と注意を受ける。規則も何も、最初に何の説明も書類も受けていない。手探りで仕事をするなかで、こうやって後から後からチクチク言われるとしんどいなあ(苦笑)
 ちぇっお風呂の追い炊き機能壊れちゃったよ。借家だから何万円も払って修理するの馬鹿らしいし・・・・シャワーで我慢やな。
 傘を倒して柄に大きな疵が。7年ばかり、綺麗に使ってきたのに…
 “花にそむきダビデの歌を誦せむにはあまりに若き我身とぞ思ふ”との与謝野晶子の句。彼女がしばしばキリスト教に言及するとき、夢野久作の「瓶詰地獄」における新約聖書を思わされる。禁欲と厳格さ、罪の汚れなきものとしての信仰生活のイメージ。小林かいちの少女向け教会イラスト。吉屋信子
 今日のブライダルスタッフはチェックが厳しかった。わずかなタイミングのズレや立ち位置について、後で延々と早口でご注意を受けたが、早すぎてついてゆけなかった。ただ、結婚式にせよ葬儀にせよ、それだけ厳粛かつ妥協の許されないものであることを、改めて学ばせてもらった。しかし二分もない説教がまだ長いというのは承服し難い。やはり白人牧師(偽者)でないと一分以内の話など無理だと思う。なまじ日本語が母国語なぶん長くなるのか。
 中条省平著、『文章読本』、中公文庫、2003.を読了。名作のテクストの構造が見事に分析、解説されたからといって、それを学んだ人が名作を書けるようになるわけでは、もちろんない。けれどもそれは解剖学者が人間の構造を解明しても人間を作り出せないのと同じだろう。
 分析され解説されるテクストの面白さは、素朴に鑑賞する面白さとはまた全然違う深みを開示してくれる。そういう意味で『文章読本』は作文テクニックを学ぶ体裁をとってはいるが、読む楽しみを何倍にも広げてくれるためのガイドブックといえる。
 橋本知事が国歌斉唱時に教師に強く起立を求める問題で、思う。たとえばわたしの中学生の頃は、教師は生徒を注意するのに、口ではなく鉄拳制裁だった。学年主任は木刀を持っていた。だからおそらく、もしも国歌斉唱で起立しない生徒でも見つけようものなら、容赦なく殴る蹴るの暴行を加えたであろう。
 男子生徒は皆丸刈り、女子生徒はおかっぱか三つ編み限定。そこまで規律を厳守せねばならないなかで、教師だけが自分の信念とやらに基づいて国歌斉唱で立ったり立たなかったりするのであれば、わたしはそんなことは絶対に認められない。生徒に厳然たる規律を求めるのであれば、教師も自分の思想等一切捨てて規律に従うべきである。ただしそれはわたしが中学生の頃のことである。今の中学生は、もしかすると思想信条の自由が認められているのかもしれない。そうであれば、そのことを教師が率先して実行するという意味で、国歌や国旗に起立しないこともあり得るのだろう。