それでも、そこにいる

 加地伸行著、『沈黙の宗教─儒教』、筑摩書房、2011の「第一章 儒教の深層─宗教性」まで読む。輪廻転生を説く仏教において、本来は遺体の保存や霊魂の召喚などは存在しない概念である。しかし線香の香りと灯明の光で毎朝仏壇の位牌へと魂を召喚し、回向する。あるいは墓参りする。それは天に浮遊する魂と地にある魄という儒教的死後理解から受容された伝統であるという。そしてそれは、生が親から子、子から孫と続く「孝」の思想を軸とする、特定の宗教団体を持たない家の宗教としての儒教の姿を表している。これらのことが明快に語られている。そして著者は明言する。だから個人主義的なキリスト教は日本人には広がらないと。牧師同士の話題として、頻繁に、けれどもぼんやりと共有されていた問題が、ここには明晰に語られている。
 しかしだからといって、今から急ごしらえに、キリスト教にもお墓があります、家庭でも祈る祭壇をご用意できます、などとやってみても、とくにプロテスタントの諸教派では、いかにもとってつけた感は否めないだろう。むしろ「だから日本人には広がらない」ところの否定点である“個”の問題、ここに特化するほうが誠実であるかもしれない。
 “家”に連なるゆたかさは、儒教的な伝統が持っているだろう。しかし“家”に連なることでは満たされない霊的な渇きや痛みを持つ人もあろう。そういう人は、日本人であっても親鸞的な意味での浄土真宗キリスト教に決断することもあろう。多数派になることは無理であっても、少数の人の渇きや痛みに敏感である場として、閑散とした日本の教会は、閑散としてはいても、絶えてはならない場なのではないかと思う。