種が撒かれる

 炎天下で、いつ牧師に復帰できるかも分からず郵便配達をしていると、ゴールも分からないのに太陽の下旅をしたアブラハムやサラ、モーセやミリアム、そして名も分からぬ大勢のイスラエルの旅人たちって偉いなと身にしみて思う。
 昨日は疲れて「なんでこんなことしてるのかな」的な気分に襲われたが、今日教会へ通う駅で、「ここで具合が悪くなって救急車呼んだんよね」と、ふと思い出したように語る連れ合いの“証言”に衝き動かされる。やっぱり自分が今ここに居ることは、連れ合いとわたしにとって旅の途中として意味がある。
 教会へ通うバスのなかで。親子連れが、一人で乗ってきた小学生に声をかける。彼が答える。「そういえば、いつもいっしょになるとおもったんだ」。
 聴くともなしに聞こえてくる会話。「ひっこしてきたの」「近所ね。また遊びにいらっしゃい。」「○○(わたしの母校の初等部)にかよってます」「そう。遠くまでえらいね。」「きょうかいへいく」「聖書もってるの?」「ない。がっこうではあるよ」
 親子連れのほうの子どもが、ちょっと気取って口をはさむ。「へえ、くりすちゃんなんや」。彼はお兄さん気取りながらも、一人でバスに乗り教会へ通うこの“近所の子”に一目置いているようにも見える。
 おそらく学校で聖書にふれて教会に行きたくなり、母校の神学部のK先生が牧会する教会を小学校で紹介され、そこへ通うようになったのだろう。母校も伝道しているのだなあと、撒かれた種に感銘を受ける。