「王道≒正しい解釈」

 礼拝で、牧師がヨハネ15:1−8を説教した。とてもよく整った、誠実で丁寧な説教だった。前任地でまったく同じ箇所で説教をしたのを思い出していた。そのとき、あとで役員から厳しい指摘を受けた。「先生の解釈は、わたしたちとは全く違うんですね。」。
 そのとき「では、どんなメッセージを皆さんは求めておられますか」とわたしが問うたとき、役員が答えた内容は、まさに今日牧師が語った内容そのものだった。聖書解釈には王道≒正しい解釈、というものが厳然と存在し、教会でそれ以外のポイントを語ることは許されないということを、改めて確認した。
 教会で求められるのは落ちるところに落ちる安心感であって、新しさではない。