静かなる「なぜ?」

 連れ合いのおばあちゃんと同居している。彼女は時々、亡くなった三人の子ども、息子二人と娘のことを話す。「神さまがいるから、くよくよしないの」と上品に語るおばあちゃん。けれども、何度もその話をする。
 認知症だから同じ話をするのではない。「神さまがいるから大丈夫」というのも、嘘ではない。彼女の信仰は篤い。けれども、「なぜ子どもたちはみんなわたしより先に死んだの?」という問い、この究極の問いが、彼女の心にずっともたげていること。これも重たい事実だ。
アルバイトから帰ってきてくたくたのときに、それも不思議と極端に忙しくて疲労困憊で帰った日に限って、おばあちゃんはその話を、思い出したようにする。我田引水な理解かもしれないが、「試されて」いる気がする。もちろん、おばあちゃんから試されているということではない。あるお方から、だ。
 わたし自身、郵便配達にすっかり没入し、最近はいわゆる「神学的な」ことを考えることも、ほぼ無い。教会を辞してから1年以上経ち、そもそも牧師だったのか?と実感も薄れてきている。けれども、おばあちゃんと向き合うとき、やはり自分は牧師として考え、耳を傾けている気がするのだ。
 わたしが祈るとき、「アーメン、アーメン」と相槌を打つ、おばあちゃん。連れ合いにとっても母親と若き叔父の二人を連続して天に送り、辛さも半端なものではなかったはずだが、この静かなるおばあちゃんの抱える傷は、もっと深いのかもしれない。(ちなみに長男は40年以上昔に亡くなっている)