出勤時、パウロに笑う

 “パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」”(使徒26:29)
 聖書のなかで、ここまで直接に冗談が語られている場所は他にないかもしれない。アグリッパ王と総督フェストゥスが彼の無罪を確信したのも、パウロの冗談のなかにユーモアと健康を見出したからだろう。おそらく二人はパウロの冗談に「ふふ」と笑ったはずだ。そして別室で彼の無罪を語りあったのだ。ピラトがイエスの無罪を確認したのとは、事情がやや違う。イエスの場合は深刻というか深遠というか、その深さにピラトは圧倒された。だがパウロの場合、もっと表面的なこと、語りの面白さが重要な働きをなしていただろう。
 “ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。”(1コリ9:20)とも“律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。”(同21節)とも語るパウロ。彼は相手の「表面」を大切にし、その笑いを共有する。