衰えあればこそ栄えあり
“あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。”ヨハネ3:30 ヨハネの弟子たちはイエスとヨハネとを比較し、イエスの弟子たちと自分たちとの優劣で妬み揺らいだ*1。栄える/衰えるとは、ここではそうした弟子たちの動揺を受けてヨハネが発した比較の語彙だとも言える。
衰える者がいるから栄える者がいる。みんなが均等に栄えたら、そこはもう「栄える」という語の機能する場ではない。衰えとの比較において栄えはあり、栄えの光のなかで衰えも明らかとなる。しかしヨハネは彼の弟子たちの語彙の続きを用いつつ、彼らの文脈を超えている。
ヨハネはイエスと自分とを比較してもいい、自分はイエス「よりも」衰えていい、否イエス「よりも」衰えねばならぬ、そう言っているのだ。彼は自分とイエスとを弟子たちのように妬み深くではなく、積極的に比較し、比較のなかに飛び込み、自らの小ささをゆたかに味わっているのだ。
他人の芝生が青い。それを誤魔化して「どうせ酸いぶどうさ」と嘯くのではなく、「そうだ、彼/彼女の芝生の、なんと青く美しいことか」と喜ぶことのできる、そんな生き方がしたい。ヨハネは比較のただなかに飛び込んで、比較を絶した信仰の極みに至る。