清濁

昨日、荷物満載で不安定なバイクを倒して、方向指示器を壊し、郵便物を撒き散らす。這いつくばり郵便物を拾いながら、なんとも言えない面倒臭さに覆われる。生きていること、一所懸命や誠実であることへの面倒臭さ。顛末書、上司の叱責。まじどうでもええ。なんか死にて。
そういや配達先の郵便受けに新聞刺さってて、血まみれのカダフィが写ってたな。
今日は雨か。昨日バイクを倒した際に郵便鞄の金具が歪んで閉まらなくなったなあ。自己責任なので、当然代替品など貸してくれない。くそったれ!今日も呪われた一日なんだろな。
努力なんて報われない。コネの有無という大いなる「予定」が、すべてを決めるのさ。負け組負け犬の遠吠え。
ヨハネの手紙一から三、ユダの手紙に、すがるように読む。偽預言者やあらゆる罪人について。彼らの呟きはわたしそのものだ。“こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。”ユダ1:16
だからこそだろうか。ヨハネの手紙一から二などは特に、神の愛、キリストによりわたしたちに現れる愛が力説されている。しばしば見られる「わたしたちは」口調といい、礼拝で信仰告白として読まれたのかもしれない。この愛に生かされたら。
ようやく仕事が終わった。大雨と大荷物とこってりお説教とで、今日も自分のクズっぷりを発揮。早く寿命が終わるのが世の中に最も貢献することだとあらためて知る。