死の贈り物

 もう服も着替え準備は出来ているのだが・・・・しんどくて教会に行く気がしない。明日もまた超重労働かと思うと・・・・・あらためて、郵便局の人たち、というより、あらゆる身体を酷使する職務についておられる方々に深い敬意を、それこそ全身の疲労感とともに味わう。世界中のブルーカラーに神の幸。
 郵便関連では、それこそはっきり差異がある。配達員はブルーカラーすなわち青いポロシャツ、ノーネクタイ。ゆうちょ銀行の職員や、日本郵便でも課長以上はホワイトカラー、ネクタイ着用。もちろん、白いシャツやネクタイは外務で汚れやすい、というのがあるからだろうが。
 おばあちゃんと連れ合いと三人で夕食。卓上の、おばあちゃんの娘であり連れ合いの母親である人の遺影を眺めつつ。おばあちゃんが「美人だねえ」。遺影は、がんで亡くなるほんの数カ月前のもの。そこには死への恐怖の、微塵の影もない。
 和辻哲郎が、あっさりとハイデガーの死の孤独や不安、代替不可能性への考察を切り捨てていたのを思い出した。和辻によれば、死は孤独でも代替不可能でもない。死は葬りにおいて生者と分かち合うものであると。
 『平家物語』における平清盛の死は、まさにハイデガー的である。部下でさえ、彼ひとりの死に、陰府へと追従することはできない。たったひとりの旅立ちの寂しさ虚しさ。こうした死の孤独に共感というより共鳴していたわたしに、和辻は風穴を開けてくれた。
 たしかに連れ合いの母親の遺影を見、また彼女の死の直前の笑顔を思い起こすと、なるほど死はそれほどに親密にできるものかと、明るい気持ちになる。それは「個人的に」死について思い詰めるのとは違う。
 死にゆく人から証しを受け取るとき、死は代替不可能のままでありつつ、しかもその人から贈り物として受け取り、先取り可能なものとなるのだ。