事件と継続

 “・・・未完了過去という名で呼ばれる〈背景の時制〉が、一般に、通常の文法書がそう説きもするように、ある無限定あるいは不定(indefinite)な幅をもった過去の出来事を述べるのをその典型的な用法とするのにたいして、アオリストは、これも通常の文法書の説くように、むしろ、幅の無い一回的な出来事、ないし仮に幅がある場合でも一定のそれと特定しうる(definite)幅をもった出来事を述べることをその特質とするというちがいがあるのである。”坂部恵『かたり─物語の文法』ちくま学芸文庫、162頁。
 昨日、坂部恵『かたり─物語の文法』(ちくま学芸文庫)を読み終えた。途中の時制に関する議論はかなり難解だったし、坂部氏自身の文体も文の一区切りが長く衒学的でもあったので、読みにくかった。けれどもそれを補って余りある学びであった。アオリスト(単純過去)と完了形などの時制の組み合わせ。
 文末で急に時制が変わることで、物語が緊張から弛緩へ、逆に弛緩から緊張へと転移される。新約聖書でそんな箇所ないかな、と探せば山ほどあったが、とりあえず一個。“光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。”(ヨハネ3:19)
 “好んだ”(エーガペーサン)はアオリスト、つまりむかし、あるところで、人間は一回だけ、光よりも闇を好んでしまった。その事実自体は取り消すことのできない事実としての過去である。けれども、“もう裁きになっている(エスティン・ヘー・クリシス)”は、現在系(現在完了形)である。
 過去の一時点の話を物語としてアオリストで語りつつ、突然現在完了形で「かたり」ではなく「はなし」、つまり緊急を要する今そこで生じた問題へと転換させて聴き手を緊張させる。ヨハネ福音書にはこうした時制の挿入による緊張がいくつか目立つように思われる。
 また坂部氏の説に従うなら、起こってしまったアオリストな過去は、取り消し不可能な「かたり」。だが過去完了(〜だったものだ)とか現在完了形(〜と今なっている)とか現在形などの事態は、変更可能な、あるいはやり直したり、これから修正したりすることができる「はなし」だという。
 さきほどのヨハネ3:19で言うなら、人間が光より闇を好んでしまった事実は「やらかしたな、お前」と指摘されれば赤面するしかないような、否認不可能の厳然たる「かたり」。それに対して“裁きになっている”のほうは、まだ無罪にしてもらえる可能性がある、変更可能な「はなし」なのだ。