真剣な懺悔

 60代の、やはりお連れ合いが病を得たために休職中の牧師と、交流を持っている。というより、彼がいつもわたしや連れ合いのことを気にしてくれて、折に触れ電話をくれるのだ。今日も仕事中に電話があり、とりあえず挨拶だけして、仕事のあとで折り返し電話。
 わたしが厳しい労働環境の話をすると、彼がシモーヌ・ヴェイユの名を挙げた。『重力と恩寵』を学生時代に読んだことが懐かしく思い出され、彼とその思想や生き様についてしばし語らう。ほんの短い電話ながら、それこそ恩寵のひとときだった。
 電話のあとで、思った。わたしは神に悪態をついたり、神に感謝をしたりはするけれども、神に罪の赦しを真剣に乞うているだろうかと。神への感謝は、ものすごく大雑把に言えば、特定の宗教を信じていなくてもできる。生への感謝というか。また、不条理な出来ごとに接して自分を超えた何かに怒りをぶつけることも、これもまたキリスト教徒でなくても起こる自然な感情でもある。しかし「キリスト」教徒であるというとき、キリストと出会ったら、自分は何をするのか。もちろん感謝もしよう。嫌なことがあれば素直に愚痴も弱音も打ち明けよう。しかし、もっと意識したい。懺悔を。真剣な懺悔を。