際限なくつぶやく日々

きっと神様も、牧師として無能過ぎたわたしに、厳しい罰を与えられたのだと思う。すべてのプライドを捨てて主の赦しを乞いたい。
もちろんそこで「キリストが贖ってくれたじゃないか」となるが、そこにすぐ行くと思考が止まる。
赦しを乞いたい。懺悔したいのだ。裁きの神の御前に。
ハッタートだったかアーウォンだったか忘れたが、いくつかあるヘブライ語の「罪」の原意のひとつに、「歪み、捻れ」を表す語があったはずだ。たとえば、ありのままのわたしでいいのだと慰められてもまったく実感が湧かないとき、わたしはこの罪を犯しているのだ。
身体や心が捻じれたら、当然眼差しも的外れな中空を睨みつけることになってしまう。そんな状態でありのままの自分や他人を見つめられるはずがない。変な姿勢に捻じれ続ける心と身体は痛みに悲鳴をあげる、痛い、痛い。
そうした捻じれや歪みは自分ではもはや治せない。整体師や整形外科医に癒してもらわないと。イエス・キリストは、わたしのかかりつけ医である。
期間雇用社員なるものをやっていると、「あなたはかけがえのない人」なんていうのは教会でだけ通用する慰めだと気づかされる。アルバイトは次々辞める。次々補充される。わたしの代えなどすぐ見つかる。かけがえのあるわたし、というのが負け組の真実だ。
かけがえのないあなた、というのがリアリティあるメッセージとして人の心に届くにはどうすればよいのか。いずれにせよ簡単には言えない言葉だろう。
かけがえのなさをリアルに感じることと、キリストからの眼差しをリアルに感じることとは、わたしにとっては同じ課題だと思われる。一日の大半を過ごす職場でお荷物と成り下がっている今は。
仕事中に倒れ、救護室。小学生んときから保健室とは長い付き合いだな…空がやけに青いわ。もうあかんな。
かみさま、もう、ころしてくれませんか つかれちまいました
こまったときの神頼み、なんていうけれど、あれは信仰をよく要約している。こまる、半端なレベルでなくこまり果てる。そんなときにキリストと出会い、祈るしかない人は、きっと信仰の真髄に達している。
バスおり際に転んで道路に札をぶちまけ。四つん這いになって札を集めたけど何枚か飛んでった。みじめなもんだな。
次の日曜日は、身を寄せている教会で礼拝のお話のご奉仕だ。もう、なんにも出てこないわたし。どう語ればいいのか。畏れ多いなんてレベルじゃない。講壇に汚物が放置されてるぞ状態になりませんように。お赦しください。贖ってください。
連れ合いが買ってきた書籍の、水野源三の句、“身障の汝を残しては死にたくないと言い続けし母逝きて三年”。ボンへファーの、母親とのやりとりを思い出し、また、我が母の心労を思う。復職したし。
休暇が明けるなあ。明日は仕事。嫌なんじゃない。恐い。ついに「恐い」なんてレベルになってしまったか。しかし連れ合いをはじめ、多くの具体的な一人ひとりの人たちが祈ってくれている。恐いという感情からは眼を逸らさないとして、その事実は忘れてはならない。