補足

 夕方ツイートした件で、友人と対話した。友人の、「それでは『体験』無き者が逆説を語ることは不可能なのか」という指摘に、はっとさせられた。まさに相手によって規定される間柄的関係の面白さ。
 たとえばいわゆる「苦労人」だけしか信仰を語ることができないのであれば、たとえば戦争体験者しか戦争を語れないのであれば、わたしたちは一歩も先に進むことはできない。これは別の友人が語ったことであるが、彼は言った。「貧しき者の苦しみを知ると同時に、富める者の孤独をも知れ」。
 「体験」を直接的なものに極限してしまうと、究極的には聖書から説教もできないことになってしまう。わたしは家畜小屋のマリアやヨセフ、生まれたてのイエス様を見ていない、そこに立ち会っていないのだから。
 とはいえ、そこに弁証法的な緊張を忘れてはならない。自らは直接的には体験できなかったことを、誠実なリアリティをもって語りつつ、しかも自分は「完全には」その出来事に到達することはできないのだと自覚する謙虚さ。他者の苦しみを完全に背負うというか、まったく同じように痛むことはできないのだという出発点。それはただの不可知論とは違う。倫理的な謙遜である。