舐めつくす

 和辻の倫理学には、しきりと「間柄的」という表現が出てくる。一人の個人がそれ自体として人間なのではなくて、まさに人の間における分裂や合一をとおして人間であるということ。
 わたしは今、無任所教師という身分である。早い話が無職である。しかし、裸で独り放り出されてそうなのではない。「独り」と感じる感覚さえ、多くのかけがえのない一人ひとりの祈りや支えという間柄を背景としてこその独りなのだ。この背景の塗り重ね、 厚塗りの豊かな彩りを忘れるな。
 “人間に対する他者であれば絶対者であるはずはなく、絶対者であれば人間を己れの内に含むはずであるが、それにもかかわらず絶対者が人間に対するものとして表象せられるところに、絶対的全体性のパラドックスが示されている。すなわち絶対的全体性は人間存在としてあり、従って有限な全体性なのである。絶対即相対、有限即無限なのである。絶対者の他者性はただそこからのみ理解せられるであろう。”(和辻哲郎倫理学(二)』岩波文庫、414頁)
 こうしたいかにも京都学派的な表現を見るにつけ、関根正雄・清三親子や小田垣雅也といった人々がどうして京都学派的なものに惹きつけられるのかに思いを馳せずにはおれない。日本人が、日本人的な背景のなかでキリスト教信仰を受容するにはどうしたらいいのかと、誠実に葛藤する姿がそこにある。
 ただ、逆説は安易に連発すると逆説の効果を失い、ただのルサンチマン、言い逃れにもなり得ることを、わたしは郵便局の厳しい仕事とその挫折の中で実感した気もする。世の中で能率や効率をよく仕事をするには、やはり努力の結果としての力や才能やいろいろな優れた要素が重んじられるのは当然のことだろう。つまりふつうは安定的な仕事ぶりにおいては「強さ」が圧倒的に価値を持つだろう。そして宗教者として矛盾するかもしれないが、強さが重んじられることは何ら間違いではなく、正確な仕事のためにそれは正しいと思う。逆説をふりかざし、いたずらに「世の蔑視(contemptus mundi)」をしているだけでは、ルサンチマンと罵られても仕方あるまい。
 それでも「弱さ」をパウロ的な意味でゆたかに語るためには、この強さの社会を徹底的に知り、強さに圧倒され、辛酸を舐めねばならない。パウロだって“ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。”“律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。”(一コリント9章)と言うとき、それは簡単なことではなかったはずだ。彼もまた、力がすべて、能力がすべての世界を存分に思い知らされたことだろう。だからこそ、そのただ中で彼が味わった“わたしは弱いときにこそ強いからです。”(二コリント12:10)も、真実味を帯びた言葉となるのだ。